吉備中山の里を訪ねて

未分類

 日本で最も古く鉄の営みのあった里、吉備、そこには、まだ充分に研究されていない鉄の文化の源がある。
それは、古備前より、古青江よりも遥か昔の神々の時代から始まるのである。

 岡山駅から吉備線に乗り、車窓に吉備の山々を眺めて十分ほどで備前一宮駅に着く。何もない静かな駅から丁度反対側に吉備津彦神社の社がある。

参道を進むと両脇には神の池と云われる鶴島、亀島の神池があり、円形の磐座には数匹の亀が遊ぶ。池の中央を渡り進むといやが上にも神々しさが高まってくる。拝殿前には、樹齢千年を超えると云われている御神木、平安杉があり、平安時代には既に吉備国歴代の国司の尊崇をうけており、吉備の中山には吉備津彦命の御陵とされる前方後円墳もある。山そのものがご神体であったころから祀られた神社なのである。

 吉備の中山に添いながら歩くこと三十分、やはり吉備津彦神社と同じく、吉備津彦命とその一族を祀る吉備津神社にたどり着く。

日本書紀、古事記、にも登場する二千年の歴史を持つこの社は、「吉備津造り」と云われる美しい建築様式で迎えてくれた。いつ誰により創建されたかは定かではないが、平安、鎌倉、室町、江戸と修復がくり返されたことは間違いなく、現在の本殿は応永三十二年の再建になることは確かであり、国宝に指定されている。北隋神門、南隋神門、御釜殿、美しき回廊等、文化財級の建造物は吉備の緑に囲まれて時間の経つのも忘れるほど見応えがあった。

 最後の目的地国分寺に向かう道すがら、時は下るが、秀吉による備中高松城水攻めの跡を訪ねずにはいられなかった。おりしも今日、六月四日、「浮き世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」と辞世の句を残して世を去った、清水宗治の自刃の日であった。四百年の時を経て蘇った蓮の花は、水に散った城主を懐かしむように薄紅色に静かに咲いていた。

 備中国分寺は、国道沿いから僅かに入ったなだらかな起伏の緑深き山里にあった。その景色はまるで時が止まったかのような美しさ、雨上がりに映える木々、五重塔、聖武天皇期に戻ったかのような壮麗さである。五重塔は江戸後期に再建されたものと云われるが、高松城の蓮の花のように、その山や木々は平安の時から変わらずそこに在り続けたに違いない。

 吉備の中山、総社あたりは、大和朝廷が勢力を誇った古代吉備王国の中心地であった。古墳からは鉄製の埋蔵品も発見されており、古代より砂鉄の産地として有名で、調として鉄を納めたと云われている。当時の吉備国には大和朝廷に従わぬ諸豪族がいたに違いなく、吉備津彦命が征伐し、今をもって敬われているからこそ吉備津神社は荘厳に鎮座しているのではないだとうか。全く資料もなく、どのような武器で戦ったのかは定かではないが、砂鉄の産地にして、鉄製武器が使われないとは考えにくく、又、他から調達してきたとも思われない。
 車を走らせながら、そこかしこの古墳群を眺め、そんなことを想像していると、いつの間にか伯備線総社駅に着いた。

 平安期、「真金吹く吉備中山」と歌枕としても愛されてきた天下の名山の里吉備、是非とも一度訪れていただきたい、美しい古の里である。

コメント

タイトルとURLをコピーしました