刀剣旅日記 第4回

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古刀山城の地、粟田口を訪ねて

古刀発祥の地である粟田口は、京七口の一つ、中部、北陸路から京への入り口、いわば街道の要衝の地であった。めざす粟田口界隈は名工三条宗近、粟田口吉光等、古刀期における山城の数多な名工を生んでいる。
平安の昔、京三条に三条宗近と名乗る刀工がいた。宗近は公卿であったが余暇に鍛刀するも技倆優れ、天皇家、公家の為に作刀したと云われている。時の帝、一条天皇の勅命により「小狐丸」の宝刀を鍛えたことが、歌舞伎、謡曲、長唄の題材として取り上げられ、刀剣に興味のない人々の間にも「宗近」の名を知らしめた所以である。

京都駅から地下鉄を乗り継ぎ、蹴上で下車し宗近の鍛刀した跡を追うも見つけられず、迷い入った所に思いもかけぬ美しい庭園に廻り会うことができた。そこは「無鄰庵」といい旧山県有朋の別邸であった。

日露戦争直前の明治三十六年四月二十一日、山県有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎により我が国の外交政策を決める会議はこの有朋の別邸「無鄰庵」で開かれたという。
潜り戸を抜けると、正に新芽が噴き出そうとしているその庭は、明治期に小林治兵衛により作庭された、実にのびやかで人の気持ちを癒す静かな庭であった。東山を借景としたその庭は、琵琶湖疎水により、まるで遠くに見える山から小川が流れているようにさえ見える。実に計算し尽くされながらもそれを微塵も感じさせない、日本の原風景をみるような庭であった。

無鄰庵を出て三条通りに出ると、粟田神社参道入り口の鳥居が見え、その道路を隔てて反対側に小鍛冶宗近が「小狐丸」を共に鍛刀した狐を祀った合槌神社の赤い鳥居を見つけることができた。こんなに小さいのかと思う程の鳥居、参道は民家と隣り合わせにあり、奧にある社もとても小さくひっそりとしていた。小さく目立たぬ社ながら、「小狐丸」の演目をするものは必ず訪れお参りをするという。

三条大通を渡り、粟田神社の参道を進み、石段を上がると粟田神社本社にたどり着く。宗近から下ること二百年、ここ粟田口は、名工藤四郎吉光を生んだ粟田口一門が、鎌倉中期から南北朝期かけて鍛刀した地である。約六十人におよぶ名匠を輩出し、後鳥羽上皇の御番鍛冶に多数選ばれ、刀剣史上他に類例を見ない名刀鍛冶一門が活躍した地なのである

社の入り口の左手に小鍛冶宗近を祀った鍛冶神社がここもひっそりとあった。粟田神社の創始については多説あるが、天足彦国神人命を祖とする氏族、粟や瓜を主食とし、鉱物を掘ることを業としていたと云われる粟田氏が、氏神様として祀られたという説を信じないではいられない。おそらく良い鉄が産出され、鍛冶を業とした民が居たであろうからこそ、名工が現れるべくして現れた土地柄なのではあるまいか。

鍛冶神社の中に明治天皇による歌碑が残されていた。書は明治天皇の親任厚く、東郷平八郎の側近であった海軍有馬大将によるものである。

「真心を 込めて鍛えし 太刀こそは 乱れぬ国の守りなりけり」

いかにも刀剣を愛された天皇が詠まれた歌らしく、ここに歌碑としてあるに相応しい。
そして、
本殿左横には、義経が奥州へ下向するときに、源氏の再興を祈願したと言い伝えられる日本最古の恵比寿様がある。
歴史ある由緒正しき神社なれど、何故か今は訪れる人も疎らで、観光客が蠢く京の都にあって実に静かである。
境内からは、北山や京の町並みを望め、一休みして静かな時を過ごすのも一考。

蹴上から、琵琶湖疎水により作庭された無鄰庵を始めとする美しい日本の庭、合槌神社、粟田神社に至る京粟田口界隈、是非とも訪れて頂きたい刀の故郷である。

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