志津兼氏の里を訪ねて

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 正宗十哲の一人と云われる志津三郎兼氏は、何故この地美濃国志津で鍛刀したのでしょうか。どうして養老山脈の人里離れた山深いこの地に移住してきたのでしょうか。そんな思いを胸に、今回の旅は志津三郎兼氏の里、岐阜県南濃町志津から養老町直江を訪ねてみました。
 国道二百五十八号から伊勢街道を関ヶ原方面へ十分程車を走らせ、街道から僅かに入った所の善教寺の境内に兼氏住居跡の史跡はあります。山迫る苔むした山門、木々が鬱そうと茂る昼なお暗い境内、堂々たる顕彰碑は、鳥や虫の声、木々のざわめきの中に高くそびえ立っていました。寺の創設は江戸期、大垣藩主戸田氏により建てられたと云われ、この顕彰碑は昭和期に刀匠川瀬雅博氏を中心とした地元有志により建立されたものです。
 元は大和手掻派の刀工であった兼氏は、鎌倉末期から南北朝初期頃に大和より志津に移り住んだと云われ、養老山脈の東側の裾の斜面、鍛冶屋谷と呼ばれた地で鍛刀活動をしたと伝えられています。その鍛冶屋谷も江戸慶安年間の洪水により山崩れで地形が変わり、今ではその地の痕跡は全く残されていません。
 お寺のお庫裡さまが言われるには、お寺の横手にあるお墓から更に奥深く山道を進むと、鍛冶屋谷であった所に、兼氏屋敷跡と云われる小さな祠が建てられているそうです。只、残念なことに、長い間訪れる人もなく今では獣道となり、とてもそこに辿り着くことは出来ないとのことでございました。

▲善教寺 参道
刀剣旅日記
▲善教寺 山門

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▲兼氏住居跡碑

 伊勢街道を更に北へ道なりに八キロほど車を走らせると、養老の町中を過ぎ、牧田川に至り、牧田川を越えた地が直江と呼ばれるところになります。養老山脈より始まる牧田川が杭瀬川と合流し、大河揖斐川に流れ込む地点にあり、現在では養老郡に属し牧田川の中州になっています。隣接する垂井町宮代には製鉄の神「金山彦命」を奉る「南宮大社」があり、養老町には「勢至の鉄座」と云われる座組織が室町中期まであったとされる記録が残り、志津、直江の地が室町前期頃まで鍛刀の地として重要な役割を担ってきたことが窺えます。
実際に志津から直江までの道を辿ると、その道は真っ直ぐに直江、牧田川に続いています。何故この地に兼氏は鍛刀場を設けたのか、その名からも河湊としてこの地である必然性が納得できるように思います。

$刀剣旅日記
▲養老山脈・牧田川

 現在では「伊勢街道」は「薩摩カイコウズ(鹿児島の花の名)街道」と呼ばれ、関ヶ原の戦いで島津義弘が徳川方の正面を打ち破り、命がけで駆け抜けた街道としても世に知られていますが、もっとかなり古い時代から、内陸の陸路から海路に繋ぐ重要な街道であったことが分かります。
 混乱の南北朝期前後、この美濃の地を支配していた土岐氏の要請により、大和鍛冶がこの地を選んで移住してきたことは充分考えられ、陸路、海路共に最も利便性の高かったであろう志津、直江の地に於いて、精力的に活動を始めたことは充分に納得させられる土地柄なのです。
 養老山脈の山並みから生まれた美しい川、その川は大河揖斐川へ、大海へと続き、そしてその先には相州鎌倉があり、兼氏が正宗十哲の一人であると云われる所以もここに来て初めて分かったような気がします。
 大和鍛冶の伝統が美濃鍛冶へと移行する過渡期とも云えるこの時期、大和伝、相州伝、美濃伝の交じり合った独特の美しさを感じさせる刀剣文化がこの地にはあったのです。
 善教寺のお庫裡さまはこうもおっしゃっておられました。

「兼氏は、この山々の清らかな水と大変良い砥石があったからこそ、このあたりに鍛冶場を設けた」と

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