明るい陽ざしを受け、生のエネルギー溢れる新緑の山々が車窓に眩しい。山間をゆったりと走る単線から小さな駅に下り立った。
今回の旅は、岐阜県恵那の山奥に近世の山城の外郭を現存させる貴重な山城、岩村城を訪ねた。
岩村城は文治元年(1815年)、頼朝の重臣加藤景廉がこの地、遠山荘の地頭に任じられたことに始まり、後、加藤の姓をこの地に因んで遠山と改めたと云われている。室町、戦国期になると、信濃と三河に通じる街道沿いに位置していた岩村は、東濃の要衝の地として、織田、徳川、武田の勢力の接触点となり、幾多の戦に巻き込まれてきた。
上洛を目指して美濃へ進出しようとする武田信玄とそれに対抗する織田信長の城を回っての攻防戦は熾烈を極め、天正元年に武田の臣、秋山信友が城を攻めるも、天嶮要衝であるこの城は落とせず、兵糧攻めの手段を取り、遠山景任病没の後采配を振るっていた信長の叔母お艶方を篭絡妻に娶り、城兵助命と御坊丸の養育を和議の条件に、城を攻略せしめたが、養育すると約束されていた養子、信長の実子五男御坊丸は甲府へ人質として送られてしまう。怒り治まらぬ信長は、天正三年、長篠の戦いで武田勢を打ち破ると、すぐさま大軍を岩村城へ向け進撃、岩村城を大軍で取り囲んでしまう。しかし、状況は反対になろうとも、やはりこの天嶮の城は落とせず、半年にも及ぶ籠城持久戦となり、退路を塞がれた秋山信友は、ついに城兵と一族の助命を条件に信友、お艶の方、重臣三名の命を差し出す和議を申し入れるが、信長は許さず、秋山以下五名お艶の方までも逆磔にされ、信濃に落ち延びようとした一族も妻子共々惨殺してしまう。
その後岩村城は、森蘭丸以下森氏が三代続き、田丸氏、江戸期に入り、松平氏により明治に至るまで続いている。
標高721mの高さにある日本で最も高い所にある岩村城は、大和高取城、備中松山城と並ぶ日本三大山城の一つであり、山全体が城郭の形を残す貴重な山城である。太鼓櫓から入り、300m続く登り坂、石畳がうねるかなり急な藤坂と呼ばれる登場坂を過ぎ、一の門、有事には橋を畳んでしまうことから名付けられた畳橋、山の地形に合わせ積まれた山城特有の菱形の石垣、敵の襲来の時には埋めてしまう埋門等、鬱蒼と繁る木々深き山道を登ってゆくと、様々に工夫され、山城として計算し尽くされたた堅牢な往時の城郭を想像することが出来る。明治期に廃城となり建物は残っていないものの、山頂には本丸跡が残り、眼下には城下町から美濃、信濃、遠くは三河の山々まで見渡せ絶景である。
質素な岩村駅から登城口に続く古い町並みは、重要伝統建造物群保存地区に指定された江戸末期から明治期の商家が残されている。御用金を扱ったと言われる木村邸、鴨長明が寓居したと伝えられる土佐屋、藩政時代に槍や鉄砲を製造していた加納家等、東濃地区の政治、経済、文化の中心地であったことが窺われる。日本に伝えられた当初のままのカステラの味を残す店や、村々で作られた野菜を売る店、木や竹、藁等で作られた小物を売る店等地味ながら散策も楽しめる。
JR中央線で名古屋から恵那駅まで約50分、恵那駅からレトロな明智鉄道に乗り約30分、近世山城の城下町、岩村に辿り着く。岩村城は駅から古い町並みを通り抜け、太鼓櫓の見える登城口まで徒歩出約三十分、そこから出丸まで車で上ることも可能であるが、約1.7kmの石畳の山道をゆっくりと登られることをお薦めしたい。日頃歩き慣れていないものにとっては、多少しんどいことではあるが、この城の山城としての魅力を感じて頂くにはやはり徒歩が良い。臨場感が違う。信長、信玄も攻めあぐねたという城を昔の武士になった気分で是非味わって頂きたい。
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