刀剣旅日記 第1回

刀剣旅日記

比叡山延暦寺の旅 幻の名宝 「中堂来光包」

 思いもよらぬ機会を得、「来光包」の短刀を手に取り見ることができた。博物館でガラス越しに見て以来、その神々しいまでの鉄(かね)の美しさに惹かれていた。地刃共に小沸えのついた厳かでさえあるその短刀は、七百年余の時を越えて私の手の中にあった。地肌は小板目肌が細やかに詰み、淡雪のごとく柔らかく美しく、また重ね厚い造り込みのその姿はむしろ力強く、時代の成せる業か美しさと覇気に富んだ独特の魅力で、時空を越え迫り来るものがあった。
 光包は通称「中堂来光包」と言われ備前長船長光門とも子とも伝えられ、後に来国俊に学んだと云われている。その後、比叡山根本中堂に隠り、僧兵の為に鍛刀したと云われ、そのために「中堂来」の名がある。作品少なく、その殆どは短刀であり、極められた短刀も十数口と云われる幻の短刀である。

日吉大社 東本宮

 以前から一度は訪れたいと考えていた比叡山延暦寺根本中堂、光包が鍛刀したと云われるその中堂を是が非でも見てみたいとの思いは益々つのり、冬近き秋の日に訪れることが出来た。
 京都駅から湖西線に乗り比叡坂本で下車、坂本は叡山開闢以来山門の経済活動の拠点であり、都への交通の要衝、水運の要として繁栄してきた門前町である。比叡山の土木営繕に携わったと云われる穴太衆(あのうしゅう)の手になる独特の石垣の小径を歩き、神代の昔より比叡山に鎮座する地主神を祀る日吉神社に辿り着く。 重要文化財を十七棟も有す日吉大社は、織田信長の焼き討ちにより全て灰燼に帰し、現在の社は桃山、江戸初期のものである。広大な敷地は何百年もの月日を経た樹木がおい繁り、紅葉は美しく色づき、厳かな雰囲気に包まれていた。
 日吉大社から数分歩き、坂本ケーブルに乗り込み、美しい山々の紅葉と眼下にきらめく琵琶湖を眺めている間に比叡山山頂に着いた。

 根本中堂は想像していたより思いの外大きく、薬師如来を祀る宝前には千二百年間守り継がれた「不滅の法灯」が底冷えのする真っ暗なお堂の中に静かに光り輝いていた。

根本中堂

 七百八十八年最澄により創建された延暦寺は、その後も天台宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など殆どの著名な開祖は、比叡山延暦寺で修行しており、日本の仏教の母山と呼ばれるに相応しいお寺である。
 徳川幕府の「諸宗寺院法度」により寺院統制されるまでの延暦寺は、大きな政治力と財政力を持ち続け常に時の権力者を脅かしていた。平清盛、源頼朝、足利義教、織田信長の焼き討ちに至ってもまだ力を温存していたのである。僧兵の数は数千を超えていたと云われ、延暦寺の権力に伴う武力が常にあったと思われる。
 鎌倉後期、光包もその僧兵らのために根本中堂で鍛刀に励んだ刀工の一人であったであろうと思われ、数知れぬ戦乱のため太刀や薙刀、槍等は残されておらず、僅かに短刀のみ残されているのである。 都を離れ、根本中堂の中で薬師如来の見守る中で、神秘的な緊張と興奮の中で鍛刀したであろう姿がこの中堂の荘厳なる佇まいから想像に難くない。

 そして最後に根本中堂から約北へ四キロの所ある慈覚大師の開いた横川中堂に向かう。元三大師堂、御廊、定光院などがあり比叡山の特に山深い場所にある横川中堂は暗く靜かであった。

横川中堂への道

 そして、そのまだ奥まった山深き所に恵心院と言われる小堂がある。恵心院とは、浄土宗の基礎を築いたと云われる恵心僧都(けいしんそうず)が隠り修行したと云われている所である。
山道をかなり歩き山深き所にある小堂は訪れる人も疎らで美しく靜かであった。

恵心堂

 晩秋の光の中、鮮やかな紅葉は美しい落ち葉の絨毯に変わり、風に舞う木の葉は寂しい小堂の庭に一葉一葉と詰み重なっていた。
 七百年前、光包が作刀に励んでいた頃もきっと比叡の山は変わらぬ美しさで、見守っていたに違いない。
 山深き道を歩き小さなお堂に辿り着いた時、時を超えて悠久の地へと誘われ、ふと光包に出会えたような旅であった。

■今回訪れたところ■

比叡山延暦寺
HP: https://www.hieizan.or.jp/
住所 : 〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220

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